「思いやり◯◯」や「ポジティブ」それ押しつけでは?

SNSでも現実社会でも、いま見渡せばいろんなメッセージがあふれています。

ちょっとした健康商品から資格取得のためのプログラム、自己啓発のためのセミナーなどの広告はもちろんそうですし、最近ではコロナをめぐる行動指針なども私たちに何らかの働きかけが毎日メッセージとして送られてきます。

たとえば、SDGsなどはその際たるもの。

いまや幼稚園児が読む「めばえ」にもSDGsが当たり前のように掲載され、右も左もわからないうちから頭にたたきこまれている状態です。

 

子供たちはSDGsが欧米諸国のルールを広告代理店が錦の御旗としてゴリ押し、日本企業が不利な競争ルールで戦う羽目になっていることを知りません。SDGsに協賛しない企業は金融機関から実質的に融資を受けられなくなるという極端な政策になっていることを知りません。

 

よく目にする「ポジティブ」や「自己効力感」で、Twitterのトレンドにも定期的に上がってきますよね。

仕事やプライベートでのちょっとした落ち込みやスランプも、また、ちょっとした思い込みからの自信のなさなど、誰でもひとつやふたつはありそうな悩み事も、「ポジティブ」や「自己効力感を上げよう」、そしてコロナ禍でよく注目される「思いやり」というスローガンたちは優しく私たちを取り囲んで、さらに「あるべき」日常へと誘っていくようです。

 

しかし私たちはいつから常に「ポジティブ」であり、「自己効力感が高い」状態を求められるようになってきたのでしょうか。そしてかつて慎ましい美徳だった「思いやり」はいつから集団のきまりのようになってしまったのでしょうか。

考えてみれば「思いやり」も本来の自発的なものから今では、反論を許さないような性格を持つパワーワード化してきていますね。

「思いやり」という名の下に必要以上に自分の生活を制約されたり、過剰に自分を犠牲にすることを求められれば、そこはきちんと主張していかなければそれは際限なくあなたを苛むことになっていくでしょう。

 

こうした優しさに囲まれていながら、その優しさにだんだん息苦しさを感じる、ということはよくあることだと思います。理由を説明するなら、その正しさが「マーケティング的な正しさ」に根ざしているからです。

本来、いつもいつもポジティブでいることは不可能であり、またネガティブな状態も危機回避や創造性を高める効果があることが実証されています。でも、社会の合言葉化したこのマーケティング的な正しさはそういう例外的な価値を飲み込んでひとつに集約していこうとします。

 

こうしたスローガンに囲まれていると、一体どこからが自分の本当の意思で、どこからが外から受け入れさせられたものだったのかが曖昧になって来やすいです。あなたが落ち込んだとき、丁寧にそれと向き合って時間をかけて癒す必要があれば、無理にポジティブになる必要はないし、それを恥じる必要もないですよね。

 

でも今の日本では特に、こうしたスローガンに合わせないと「変わり者」「自分のことしか考えていない人」といった批判に晒されやすく、そのため皆自分の感情に封印をして周りに溶け込むことを至上命題とするわけです。

しかしこういう姿勢が、海外ではとっくに終わっているコロナやマスク文化を社会現象として存続させてしまうことを許したり、国民を守るべき政権がその役割を放棄していても見ないフリをしてしまう結果に繋がってしまったのではないでしょうか。

社会的な制御の効いたこうしたメッセージを受けながらも、正直な自分の声に向き合っていく習慣や、それは本当に正しいことなのかと問い直す姿勢を保つことが自分の生活やひいては社会をバランスの取れたあるべき状態に保ち続ける秘訣と言えます。